夢中で君に恋してる

ジャニーズとレモンサワーとハラ美

烏滸がましいと思いながら、誰かの「大丈夫」になりたい。

例えば、恋愛であったり、仕事であったり、家族であったり、友達であったり、はたまた何の理由もなかったり、だけど、どうしても日々生きてると「大丈夫じゃないな」ってことがあったりして。だけど大人だから。私たちって大人だから、なんとなく誤魔化して、ヘラヘラして、自分に「大丈夫」っていう誤作動を無理やり起こして、やりきって、やりきって、でもやるせなくて。結局ぺしゃこんになってしまう。そんな日あるじゃないですか。ないですか。いや、ないならもうそれは最高だと思います。

 

笑う門には福来るとは言いますが、無理に笑って心をすり減らすのは、ただただ真綿で首を締めてるだけだなって感じるし、まあ縄やロープじゃないだけましなのかなって思ってまた大丈夫じゃない自分を誤魔化して、なんか息がしづらいことに気づかなかったりして。気が付くのがいつも遅い。「大丈夫?」と聞かれて「大丈夫じゃないよ」て言える人って世の中そういないんじゃないかなって思う。大丈夫じゃない自分なんてあんまり人に見せたくない。それがださいとわかっていても、大丈夫なふりしてたい。

 

自分にとって、どんなことがあっても、これがあれば大丈夫!みたいなものがあればいい。それが神社のお守りだったり、はたまた、ガラクタようなピアスだったり、いくらのおにぎりだったり、絶対に似合うと思ってるリップだったり、アイドルだったり。そういう拠り所を持ってるだけでちょっと無敵になれたりするから、何かを信仰するってのはある意味自然の摂理なのかもしれないなあ。

 

私にとっての「これがあれば大丈夫」は今はやっぱり末澤くんだったりするし、実家の犬だったりするし、あと「大丈夫?」って聞いてくれる友達だったりするし。つい見栄張って「大丈夫」って答えちゃうけど、今こいつ結構やばいんじゃないの?って思ってくれることがうれしい。そんな深い意味を持たない「大丈夫?」でも、思い出してくれてうれしい。あなたの中にわたしの存在がまだ残ってることがうれしい。

 

友達だから、恋人だから、家族だから、全部を話す必要なんかどこにもなくて、墓場に持っていく秘密だってたくさんある。口にするだけで震えそうな経験だってある。みんなそういうもんだよなって思う。だから、話さなくていいよ。話したくなったら聞くけど、つらい経験や嫌な思い出をわざわざ口にする必要ないよ。自家中毒にだけは気を付けてって思うけど、腹割って話すだけが人間関係じゃないし。でも、腹割って話してくれたらそれはそれで安心する。どっちでもいいのよ。関係性に変わりはない。適材適所でいいじゃないの。忘れていく存在だとしても、今この時仲良くしてくれててありがとうって思う。

 

すごく烏滸がましいし恥ずかしいしダサいけど、わたしも誰の「これがあれば大丈夫」の存在にいつかなりたい。それが「我が人生、こいつよりましだから大丈夫」の蔑みであろうと、誰かの大丈夫になれたら、馬鹿でかい自意識と自己陶酔振り回しちゃうんだからね。